2023年11月30日
ルイヴィトンの歴史。トランク職人から世界を代表するブランドへ。
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ルイヴィトンは、その名を知らない人はいないほど有名なブランドで、老若男女問わず人気を博しています。それもそのはず、ルイヴィトン全体の2022年の売上高は200億ユーロ(約2兆8000億円)を突破しました。ルイヴィトンは世界中に店舗を展開していますが、日本は全体のうち24%もの売り上げを占めています。このことからも、日本ではルイヴィトンが大人気のブランドであることがわかるでしょう。
そんな日本人に大人気のルイヴィトンですが、実は日本と密接な関係があることをご存じの方は、それほど多くはないのではないでしょうか。この記事では、ルイヴィトンの歴史について詳しく解説しています。ルイヴィトンは元々どのような商品を扱っていたのか、有名になったきっかけは何なのか、日本人がなぜかルイヴィトンに惹かれてしまうのか、このような謎がすべて解けます。
また、ラグジュアリーコレクションを多彩に展開しているルイヴィトンでは、王道のバッグをはじめ財布やキーケース・洋服も販売しています。2002年からは時計販売を本格的に開始しており、価格や人気・価値も気になるところです。今回は、ラグジュアリーコレクションのなかでも時計に特化してご紹介します。
目次
1.ルイヴィトン・創業者の生い立ちからブランド設立まで
ルイヴィトンの創業者・ルイヴィトン(Louis Vuitton Malletier)は、1821年フランスに生まれました。現在ではルイヴィトンの名を知らない者はいないに等しいですが、1821年から現在まで200年以上の歴史があります。ここまでルイヴィトンが有名になったのは、どのような歴史があったのでしょうか。ここではルイヴィトンの生い立ちからブランド設立までの奇跡をご紹介します。
1-1.14歳のときに家出してパリに向かう
ルイヴィトンの創業者は、その名の通り「ルイヴィトン(Louis Vuitton Malletier)」です。ルイヴィトンは、1821年8月4日、フランスとスイスの国境付近にあるジュラ地方のアンシェイ村で生を受けました。12人兄弟の真ん中で育っていますが、ルイヴィトンが10歳のときに母親が5番目の子供を産んだ際に死去し、翌年に父親が再婚しています。
義母の素行は悪く、ルイヴィトンや他の兄弟に強く当たったりかまどにくべるために製材所からかんな屑を集めさせたり、牛の世話を押し付けるなど、辛い少年期を過ごしています。そして1835年、義母の扱いに限界を感じたルイヴィトンはわずか14歳で家出を決意し、パリに向かいます。ジュラ地方のアンシェイ村からパリまでの直線距離は400kmあり、鉄道が通っていない場所があったため、郵便馬車を使っても4日以上かかる計算となります。
しかし、14歳のルイヴィトンは馬車の1里分の料金である12スリーも持ち合わせていませんでした。そこで、ルイヴィトンはさまざまな仕事をしながらパリに向かうことを決意します。ルイヴィトンが経験した仕事は、食堂のボーイや馬屋番などがありましたが、一番興味を持ったのは木の仕事です。
ルイヴィトンが育ったジュラ地方のアンシェイ村には馴染みのない桜やぶな・ポプラ・栗といった多彩な木に触れながら、雑木林を間伐する仕事をして木について詳しくなっていったのです。さまざまな経験をしながら、1年以上もかけてパリに到着しています。仕事のあてがないルイヴィトンは運命の出会いを果たします。
1-2.トランク製造職人の見習いになる
1837年の秋、オペラ座近くのフォーブルサントノーレ通りで荷造り用木箱製造職人兼荷造り職人のマレシャルと出会い、1日2食の食事の支給やかんなくずを枕にして仕事台で寝るなどの条件で見習いになりました。荷造り用木箱は、当時のファッションに関連して必要なものでした。当時のフランス宮廷では「クリノリン」と呼ばれる大きく広がったスカートが流行しており、形を崩さず収納して運ぶために大容量の荷造り用木箱が必要だったのです。
見習いとして働いていたルイヴィトンは、パリに来る途中に雑木林を間伐する仕事で木の性質や材質などを学んだことを活かして、レベルの高い荷造り用木箱をつくるようになります。ルイヴィトンはその後10年以上木と向き合い、木を削ぎかんなをかけて上質な荷造り用木箱の製造を続けました。ルイヴィトンは来る日も来る日も木と向き合い、気づけば30歳となり王室御用達の有名職人へと成長を遂げます。
1-3.王室御用達の有名職人に成長
30歳になったルイヴィトンの技術は高く、荷造り用木箱製造職人として有名になっていました。また、荷造り用木箱職人だけでなく荷造り職人としても活躍をはじめます。荷造り職人とは、仕立て屋から依頼を受けるとアトリエへ赴き、オートクチュールの衣装を箱詰めする仕事です。レベルの高い荷造り用木箱製造職人として認められたルイヴィトンに、多くの仕事が舞い込んだのです。
荷造り職人として仕えた有名な皇后としてユージェーニーがおり、ルイヴィトンと師匠のマレシャルはエリゼ宮に足を踏み入れています。世界に君臨するフランス・オートクチュールの豪華な衣裳の箱詰めをおこない、ユージェーニーにその仕事ぶりを買われ、以後はルイヴィトンひとりで荷造り職人を務めています。そんな折、師匠のマレシャルも年を重ねて引退が近づいたことやルイヴィトンが荷造り用木箱製造職人兼荷造り職人として地位を築いていたことなどを踏まえ、1854年に結婚した妻エミリー・クレマンス・パリオーと相談して独立することを決めました。
2.ルイヴィトンの魅力と有名になった理由
皇后ユージェーニーの荷造り職人として認められ、荷造り用木箱製造職人としても名声を得ていたルイヴィトンは、師匠マレシャルの元を離れてアトリエをオープンさせます。皇后から気に入られていただけでも素晴らしい職人ですが、ルイヴィトンはこれだけでは終わりません。「グリ・トリアノン・トランク」を発表してから世界をまたにかける人物となり、ブランド「ルイヴィトン」の名を世界に知らしめていくのです。ルイヴィトンが有名になった理由や魅力に迫っていきます。
2-1.最新のトランクケースを販売
1854年、ルイヴィトンはパリのキャプシーヌ大通りに、世界初の旅行かばんアトリエ「ルイヴィトン」を設立しました。キャプシーヌ大通りは、パリを走る4つの大通りのひとつとして知られており、世界的に有名な画家クロード・モネが制作した油彩画の題名ともなっています。また、近くには平和通りやヴァンドーム広場の仕立て屋があります。
ヴァンドーム広場は、ルイ14世の時代に作られた八角形の広場で、ラグジュアリーを象徴する場所として知られており、高級ブランド店やジュエリーショップが立ち並びます。そのため、高級品に興味があり旅行好きのような金持ちの多くが訪れる場所であり、ルイヴィトンのような世界初の旅行かばんを販売するには最高の立地だったと言えるでしょう。
ルイヴィトンは、自分のアトリエを構えてすぐに画期的な新作のトランクケースを発表します。これまでのトランクケースは馬車に乗せて利用されており、雨が降った際に水が溜まりにくくするため、上部が丸みを帯びたドーム型をしていました。また、素材は革を使用していたため、トランクケースの中に入れる衣類を合わせると相当な重さになっていたと考えられます。
そこに目を付けたルイヴィトンは、まず素材を革から重量の軽いコットンキャンパスに変更します。さらに防水性を高めるため、防水加工を施した「グリ・トリアノン」という生地を開発しました。こうすることで、雨が降っても濡れにくい素材にもかかわらず、重量の軽いトランクケースの開発に成功したのです。
また、ルイヴィトンが開発した画期的なトランクケースは、軽さや防水性が優れているだけではありません。上部が丸みを帯びたドーム型のトランクケースの形にも目を付けて、上部を平らにした四角いトランクケースを作り上げました。上部を平らにした理由としては、今後機関車や船などの移動手段が増えると考えたためで、トランクケースを積み上げられるようになると便利だという考えのもと生み出されました。未来の発展を見据えたトランクケースは時代にマッチしたため、瞬く間に世間に広がり大人気商品となるのです。
2-2.アニエール=シュル=セーヌに新工場を設立
先見の明があったルイヴィトンが開発した画期的なトランクケース「グリ・トリアノン・キャンバス」は、国内にとどまらず海外でも知られることとなります。そのため、製造が追いつかず、パリから数分離れた場所にある新工場アニエール=シュル=セーヌを1859年に設立します。1854年にアトリエを出店してからわずか5年で新工房を設立しているため、どれほどの人気があったか想像に難くないでしょう。そんな中、1857年には息子のジョルジュヴィトン(Georges Vuitton) が誕生しています。
1859年に設立された工房アニエール=シュル=セーヌは、トランク製造用のポプラ材運搬のためのセーヌ川からアクセスがよく、1号店のあるキャプシーヌ大通りへもサンラザール駅を通じて立地の良い場所です。現在でもアニエール=シュル=セーヌは工房として稼働しており、高級バックと昔ながらのラゲージ特注品が作られています。そのため、40〜50年前の新聞紙を持ち込んでラゲージ特注品をオーダーする客もいるほどです。
アニエール=シュル=セーヌの工房には多くの職人が在籍しており、レザー職人や馬具職人はもちろん、木材大工などもいます。どの職人も手作業でルイヴィトン製品を作り上げていきます。また、ルイヴィトンから5代目となるパトリック・ルイ・ヴィトンのセカンドハウスでもあり、期間限定で訪れることのできる観光名所ともなっているのです。
1867年にパリ万国博覧会が開催された際には、船旅に適した「ワードローブ・トランク」を発表し、銅メダルが授与されたことでさらにルイヴィトンの名が世界に広まります。1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャから旅行中に果物を保存できる特注のトランク製造を依頼されたり、1875年にはイタリア系フランス人の探検家であるピエール・ブラザからどこでも眠れるベッド・トランクの依頼に応えたりと、名声を広めました。また、ロシアのニコライ皇太子やスペイン国王のアルフォンソ12世・ラテン系の王侯貴族からも声をかけられています。
3.知られざるルイヴィトンと日本の密接な関係
ルイヴィトンが世界に名をはせる有名ブランドとなっていく一方で、その人気からコピー商品が横行するようになりました。これにはルイヴィトンや息子のジョルジュも頭を抱えており、さまざまなデザインを考案してコピー商品に対抗します。長い年月をかけて1896年、息子のジョルジュによってついに「モノグラム・ライン」を発表し、コピー商品との戦いに終止符を打つのです。
コピー商品激減のきっかけになったモノグラム・ラインは、実は日本と密接な関係があることはご存じでしょうか。当時の歴史背景を振り返りながら解説していきます。
3-1.コピー商品が横行
世界中の有名人から指名を受け、さまざまなトランクを発表してきたルイヴィトン。ルイヴィトン商品の売り上げは右肩上がりで、勢いはとどまることを知らず、1885年にはイギリスの首都ロンドンに初の海外ストアを開店させました。しかし、その名が知れ渡れば知れ渡るほどコピー商品が横行し続け、ルイヴィトンを悩ませることとなります。
コピー商品に対抗するために、1872年には新作「レイキャンバス」を発表し、生地にこだわりを持ちました。レイキャンバスの生地は、最初は赤色の縞模様をいれていましたが、その後ベージュと茶色の縞模様へと変化しています。カラーを変えてコピー商品が出回らないように工夫を凝らしましたが、これも失敗に終わっています。
コピー商品を失くす方法を見つけられないまま、月日が過ぎていく一方で、ルイヴィトンは変わらずトランクの製造を続けます。1880年には、息子のジョルジュがジョセフィーヌ・パトレイユと結婚し、ルイヴィトンの孫ガストンが誕生。私生活も充実していたルイヴィトンは、スクリーブ通りの店を息子に任せることを決めました。そして、ルイヴィトンの息子ジョルジュが中心となり、ルイヴィトンをさらに成長させていきます。
3-2.ジャポニズムに影響を受ける
この頃のフランスは、最もジャポニズムの影響を受けた時代と言えるでしょう。遠く離れた地でどのようにしてジャポニズムに影響を受けたのか、歴史をひも解いてみましょう。日本では1854年の日米和親条約成立から、日本の磁器が大量に欧米に渡るようになりました。
磁器はもともと中国で開発されたものであり、ヨーロッパ各地の王族や貴族が購入していました。ところが、中国の明朝が滅んで磁器の輸出がストップしてしまい、代わりに磁器の輸出を日本がスタートさせたのが、ヨーロッパとの繋がりのはじまりです。ジャポニズムがヨーロッパに取り入れたのは意外にも磁器ではなく、磁器を包んでいた浮世絵の梱包資材でした。
磁器の梱包資材として利用されていた浮世絵には、かの有名な北斎漫画も含まれており、その高い芸術性に版画家のフェリックス・ブラックモンが感銘を受けたことが知られています。1862年にはドソワ夫妻が極東美術品店「支那の門」をオープンし、店にはジャポニズムを求めた画家や作家が集いました。また、世界的に有名な画家モネは印象派展で「ラ・ジャポネーズ」を出品しており、日本に影響を受けていることがわかります。
ジャポニズムの影響を受けた理由としてもうひとつ挙げられるのは、1867年に行われたパリ万国博覧会でしょう。万国博覧会には日本人も訪れ、袴を着てちょんまげ姿の堂々とした出で立ちは、西洋人に大きな影響と衝撃を与えました。日本のパビリオンでは日本庭園や盆栽が展示され、磁器の梱包材として話題になっていた浮世絵や琳派の作品が飾られ、多くの外国人の心を魅了したのです。
3-3.モノグラムの誕生
ルイヴィトンからスクリーブ通りの店を任された息子のジョルジュは、父にも負けない才能を持ち合わせており、コピー商品との戦いを続けたり、新作を発表したりと素晴らしい功績を残していくこととなります。1888年にはコピー商品に対抗するため、商標登録ルイ・ヴィトンの文字を入れた「トアル・ダミエ」というトランクを発表します。トアル・ダミエは1889年のパリ万国博覧会において、金賞を受賞しています。
ジョルジュはその後、1892年にハンドバッグの販売を開始し、ラグジュアリー商品の展開に目を向けます。また、父のルイヴィトンもルイヴィトンの全商品が掲載されたカタログを出版。その後ルイヴィトンは71歳で息を引き取り、カタログは彼の集大成となる作品となりました。
なおも、コピー商品に悩まされていたジョルジュはついに「モノグラム・ライン」を発表します。モノグラム・ラインは1896年にジョルジュにより考案され、ルイヴィトン生誕200周年を超えた現在でも愛されているデザインです。モノグラムのデザインはご存じの通り、ルイヴィトンのイニシャルをとったLとVや花柄・星柄などがあり複雑です。ルイヴィトン製品はすべて職人がひとつひとつ手書きで作り上げており、複雑なデザインを徹底して職人により作成されました。これにはコピー商品も対応できなくなり、コピー商品は激減していったのです。
コピー商品撲滅のため、さまざまなデザインを考案してきたジョルジュですが、デザインにはジャポニズムが大きく関わっているのをご存じでしょうか。1888年に発表した「トアル・ダミエ」のデザインは日本の市松模様に似ています。また「モノグラム・ライン」の中に描かれている花のマークを丸で囲んだデザインは、日本の家紋がルーツとなっているのです。日本人がルイヴィトンを好む理由は、ジャポニズムの影響を受けたデザインに親しみを感じるからかもしれません。
4.ラグジュアリー商品の本格展開
1900年代に入ると、2代目のジョルジュヴィトンは、ラグジュアリー商品の本格展開を目指すようになります。トランクだけではなく旅に持ち歩けるようなかばんを発表し、日本にルイヴィトンの出店を決めたのです。
さらに、1988年にはファッションデザイナー「マーク・ジェイコブス」をルイヴィトンのアーティスティック・ディレクターとして迎え、財布やハンドバッグをはじめ、2002年にはルイヴィトン初の時計「ウォッチタンブール」を発表しました。ファンションにも力をいれるようになり、名立たる人物がルイヴィトンのアーティスティックディレクターを務め、ルイヴィトンのイメージのさらなる刷新を始めます。
4-1.ルイヴィトンが日本に出店
2代目となったジョルジュヴィトンは、1900年代に入るとラグジュアリー商品の本格展開をはじめます。まずアメリカに渡り、ニューヨークをはじめシカゴやフィラデルフィアのような主要都市で販路を拡大。1901年には、もともと旅客船の洗濯物を収納してドアノブに掛けて使い、乗員が持っていく仕組みで使用されていたランドリーバッグを改良して、トランクの中にいれることのできるバッグ「スティーマーバッグ」発表しました。
その後も、香水や衣類などを小分けにできる仕切りのついたトランクや海に落ちても沈まないトランク、水やほこりを防ぐ素材を使用したトランクなどを開発します。この中でも海に落ちても沈まないトランクは有名で、1912年に起きたタイタニック号沈没事故でルイヴィトンのトランクにつかまっていた者は助かったという逸話もあります。順調に世界的に販路を広げ有名ブランドとなったルイヴィトンは、本店が手狭になったため、パリのシャンゼリゼ通りに広さ500平方メートルもある新店舗を設立します。
月日は流れ、1954年に創業100周年を迎えたルイヴィトンは、パリのマルソー大通り78番地に新店舗をオープンさせます。この頃は3代目ガストンヴィトンに実権が引き継がれており、父であるジョルジュヴィトンに負けじと次々と新作を発表しています。1959年にはエジプト綿に塩化ビニルの樹脂加工を施したトアル地の「モノグラム・キャンバス」の販売を開始しました。
モノグラム・キャンバスに使用されたトアル地は、固くて丈夫なうえに弾力性があるという特徴があり、その後に発表される数々の商品に使用されています。コンパクトに収納して旅行かばんとして使える「キーポル」や女性に人気の「スピーディ」にもトアル地が採用されています。その後もトアル地を採用したモノグラム・キャンバスのバッグが次々と販売され、ルイヴィトンの孫であるガストンヴィトンもルイヴィトンの繁栄に貢献しました。
1978年にはついに、日本の東京と大阪にルイヴィトンが出店されます。ルイヴィトンが日本に出店を決めた理由は、パリのルイヴィトンで大量に商品を購入し、並行輸入品として日本で高額販売している事実が明るみになったためだと言われています。ルイヴィトンは高額転売に目をつむることはできなかったため、日本にも出店を決めたのです。
1987年になると、ルイヴィトンは大きな変革を迎えることとなります。シャンパンメーカーとして知られているモエヘネシー(Moët Hennessy)と合併することを発表し、「LVMH」モエヘネシールイヴィトン(Moët Hennessy- Louis Vuitton)が誕生します。世界を代表するシャンパンメーカーとファッションブランドの合併により、高級品業界最大の企業となりました。
「LVMH」はフランス・パリを拠点とする世界最大級の多業種複合企業体(コングロマリット)であり、買収を繰り返して企業を大きくし、2022年度の全体売上高は約792億ユーロ(約11兆1600億円)にも上ります。LVMHのCEOを務めるベルナール・アルノーは、フォーブスが発表した2023年版世界長者番付によると、推定保有資産額2110億ドル(約28兆円)を所有しており、いかに大きな企業体であることがわかるでしょう。
LVMHグループが傘下に置くブランドは今や70以上を保有しており、ファッション業界ではFENDI(フェンディ)KENZO(ケンゾー)、時計やジュエリー業界ではBVLGARI(ブルガリ)・CHAUMET(ショーメ)などの名立たるブランドが所属しています。その中でもルイヴィトンは別格で、LVMHの2023年上半期の売上高の約45%を占めています。ルイヴィトンはLVMHの核となっており、傘下に入っている他のブランドの低迷を救う役割を担っているのです。
1998年になると、ラグジュアリー商品の展開が加速します。ファッション業界へ進出すると共に、アメリカニューヨーク生まれのファッションデザイナー「マーク・ジェイコブス」をルイヴィトンのアーティスティック・ディレクターとして迎えています。マーク・ジェイコブスは斬新なマーケティングと革新的なデザインを武器に、これまでのルイヴィトンのイメージを刷新していきます。
マーク・ジェイコブスは、ルイヴィトンをファッション業界に広めるために「プレタポルテ」という高級な既製服を発表し、パリコレのメイン会場でファッションショーをおこないました。また、ルイヴィトンの象徴ともなっているモノグラムを前面に押し出した「モノグラム・ヴェルニライン」の販売も開始します。モノグラム・ヴェルニラインの「ヴェルニ」とはフランス語でエナメルを指し、光沢感のある外観が特徴です。モノグラムを型押ししたデザインと鮮やかなカラーの財布やハンドバックのシリーズが「モノグラム・ヴェルニライン」と呼ばれます。
続いてマーク・ジェイコブスは、1988年に生まれた市松模様の「ダミエ・ライン」を復活させたトラベルバックやシティバック・財布を発表します。モノグラム・ヴェルニラインのように鮮やかなアイテムではなく、シックなブラウンの色合いが特徴のため、ビジネスシーンや旅のお供としてヒットしました。キャンバスの表面は、職人一人ひとりが丁寧にコーティングを施しており、変わらずルイヴィトンの技術が引き継がれています。
さらに、1999年には限定品3種を発表して、今しか購入できない価値ある物だと主張します。限定3種は、エナメルのようなエピ地にブラックライトを当てるとモノグラム柄が浮き出る「サイバーエピライン」6穴バインダー手帳の「アジェンダPM」と「グッド・ラック・ブレス」となっています。続いて、女性らしさや可愛らしさを演出した「モノグラム・ミニライン」も発表されました。
4-2.2002年から本格的に時計の販売を開始
ラグジュアリー商品の展開に成功し、ルイヴィトンがファッションブランドとしても確立された2000年代に入ると、2001年にルイヴィトン初のジュエリー「チャーム・ブレスレット」2002年にはルイヴィトン初の時計「ウォッチタンブール」が発表されました。「タンブール」とはフランス語で「太鼓」を意味し、その名の通り厚みのあるラウンド型のケースが魅力的な時計です。ここからは、ルイヴィトンの時計にフォーカスして解説していきます。
ルイヴィトン初の時計「タンブールコレクション」は2002年に販売が開始され、当時はスイスのETA社が製造していたため、ETA社製のムーブメントを搭載しています。2014年にルイヴィトンの子会社ラ・ファブリク・デュ・タンが設立され、タンブールコレクションの製造を引き継いでいます。そのため、2014年以降に製造されたタンブールは、ラ・ファブリク・デュ・タン製のムーブメントが搭載されています。
ルイヴィトンのタンブールコレクションは、デザインやダイヤのカラット・箱によって種類は多くありますが、原型は大きく分けて6種類です。6種類のうち3種類の「タンブール・オトマティック」「タンブール・ホライゾン」「タンブール・スリム」がETA社製のムーブメント、残りの3種類の「タンブール・モノグラム・マザー・オブ・パール」「タンブール・モノグラム・エボリューション」「タンブール・カルペ・ディエム」はラ・ファブリク・デュ・タン製のムーブメントが搭載されています。
ルイヴィトンの時計を製造するためだけに設立されたラ・ファブリク・デュ・タンは、ジュネーブの郊外のメイランにあり、4,000平方メートルもの広さを誇ります。多くの時計職人が在籍し、一つひとつ丁寧に製造しているのです。現在のタンブールコレクションの価値は、ムーブメントの製造場所に左右されると言っていいでしょう。
そのため、スイスにあるETA社で製造したムーブメントを搭載しているタンブールより、ラ・ファブリク・デュ・タンで製造したムーブメントを搭載しているタンブールの方が価値が高いのです。大きな理由としては、ラ・ファブリク・デュ・タンの歴史が浅いため、ラ・ファブリク・デュ・タンで製造されたタンブールコレクションモデルの数が少ないことにあります。ルイヴィトン直営の製造会社で製造されたことやまだ製造数が少ないことが、希少性を高めているのです。
しかし、スイスにあるETA社で製造されたタンブールコレクションの価値が低いわけではありません。ルイヴィトンの時計は第二世代・第三世代と新しいモデルが販売されていますが、発売当時のタンブールはルイヴィトン好きや時計愛好家に需要があるためです。また、比較的リーズナブルな価格で購入できることもメリットと言えます。
4-3.現在も進化を続けるルイヴィトン
ここからは再びルイヴィトンの歴史に戻り、2003年以降の出来事をご紹介します。2003年には日本人デザイナーの村上隆とのコラボが実現し、モノグラムにカラーを取り入れたラグジュアリー商品が発表されました。モノグラムにカラーを配したデザインは「モノグラム・マルチカラー」と呼ばれ、古風なイメージを刷新させました。
村上隆が生み出したコラボ商品は他にも、モノグラムの上からチェリーを描いた「モノグラム・チェリー」モノグラムの上から桜の花や花びらを描いた「モノグラム・チェリーブロッサム」モノグラムの上からパンダのイラストを描いた「モノグラム・パンダ」などの斬新なデザインの商品が販売されています。2004年にはジュエリーコレクション「アンプリーズ」も発表されました。
2013年、アーティスティックディレクターを長年勤めていたマーク・ジェイコブスが退任し、バレンシアガの立て直しに貢献したことで知られているニコラ・ジェスキエールが後任となります。ニコラ・ジェスキエールは当時流行していたゲーム「ファイナルファンタジー」のキャラクター「ライトニング」を広告モデルに起用したことで、日本だけではなく海外からも驚きの声が上がりました。
ヴィトンのメンズウェア部門においては、2011年からキム・ジョーンズがアーティスティックディレクターに就任しています。マサイ族の衣装から着想を得たデザインであるマサイチェックを、2016年には藤原ヒロシとダブルネームで「Fragment design」というコラボ商品を発表します。ルイヴィトン初のコラボ商品は話題を呼びました。
2017年になると、「Supreme」とのコラボも実現します。実は2000年にシュプリームがルイヴィトンのモノグラム柄をパロディしたニットキャップやステッカーを販売したことで、著作権侵害として裁判沙汰になっています。裁判の結果はルイヴィトンが勝訴となりましたが、世界中から注目を集めた事件だったため、コラボ発表は世間を騒がせました。キムジョーンズとシュプリームの創業者であるジェームス・ジェピアに交流があったことから、コラボが実現しています。
2018年にはキムジョーンズの退任が決まり、OFF-WHITEのデザイナーであるヴァージル・アブローが新たなアーティスティックディレクターとなりました。ヴァージル・アブローは、ブリーチ加工やタイダイ柄を使用したストリートテイストのファッションを取り入れたことで、一気に若年層にもルイヴィトンの認知が広がっていきました。しかし、2021年11月28日にヴァージル・アブローは癌でこの世を去り、ルイヴィトンのCEOであるマイケル・バークは彼の献身をたたえています。2023年に後任として、音楽プロデューサー兼歌手のファレルウィリアムスが、クリエイティブディレクターに就任しています。
5.ルイヴィトン生誕200周年!今もなお多くの人に愛されるブランド
14歳のときになけなしのお金を持って家出し、荷造り用木箱製造職人兼荷造り職人となった青年が、世界的な有名ブランド「ルイヴィトン」を作り上げた歴史をご紹介しました。先見の明を持っていたルイヴィトンが世界に名を轟かせ、2代目のジョルジュヴィトンが父の意志を引き継ぎ、伝統を守りながらコピー商品との勝負に打ち勝ちました。さらに3代目のガストンヴィトンが、時代に合わせたコンセプトでルイヴィトンを売り出し希少性を高めています。
ルイヴィトンのコンセプトは「旅」であり、創業当初からコンセプトは変わっていません。創業当初は馬車や鉄道で移動する旅で必要なトランク製造からはじまり、旅行に行く際に持っていくかばん製造へと変化し、近年では旅先で訪問できるルイヴィトンとなったのです。これからも時代にマッチした運営を続けるであろうルイヴィトンの未来が楽しみです。