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2024年1月09日

【世界が憧れるブランド】エルメスの歴史について徹底解説!

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エルメスはフランスを代表するラグジュアリーファッションブランドです。もはや、世界中にエルメスの名を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。数あるラグジュアリーブランドの中でも、質の高さは抜群、それゆえに商品価格も高額となります。いつか持ちたい憧れのブランドとしてエルメスの名を挙げる人も多いです。

エルメスのブランドロゴを見て、馬と関係のあるブランドであることに気付く人も多いのではないでしょうか。そう、エルメスの歴史は1837年に、馬具のアトリエから始まりました。

またエルメスは、創業から180年以上も一族経営を続けている稀なブランドでもあります。今回は、最初に立ち上げた初代エルメスから現在の一族6代目になるまでの歴史を徹底解説していきます。

目次

【1837年〜】創業者ティエリー・エルメスの時代

出典:HERMES

ルイ・ヴィトン、シャネルに並び、エルメスは世界三大ブランドのひとつで、世界中の誰もが認める最高峰のブランドです。まずはエルメスがどのような経緯で始まったのかを詳しく見ていきましょう。

1-1.エルメスの創業者ティエリー・エルメスについて

エルメスの生みの親は、ティエリー・エルメスという名の人物です。1801年、当時フランス領で現在のドイツ・クレフェルドで宿屋を経営する両親のもと、第6子としてティエリーが生まれました。

しかしティエリーは10代で、当時ナポレオンが起こした戦争と病気によって家族全員を失ってしまいます。ティエリーは、悲しみを打ち消すかのように、13歳から始めていた馬具職人の仕事に、より一層打ち込むようになりました。

そして1821年頃からは、パリにある馬具屋の見習いとして働き始めます。

ティエリーは真面目に働き、職人としての腕を地道に上げていき、私生活では結婚もして、家族をつくります。結婚後もティエリーの向上心は尽きず、革の染色やなめし方も学びました。

そして1837年、ティエリーが36歳の頃ついに自分の店を開くことに。
これが、エルメスの始まりです。

1-2.馬具アトリエからの始まり

1837年、パリのバス・デュ・ルンパール通りに馬具工房として現在の「エルメス」の母体となる店がオープン。当時、ブルジョアたちの間では馬車が大流行していて、馬具職人は需要が高く、他の職人よりも何倍も稼ぐことができました。

エルメスは当初、馬具屋の下請けとして開業し、馬車屋に商品を売り込み、馬車に自分たちの商品を使ってもらうという流れの商売でした。ティエリーが重要視していたことは、儲けることより何よりも製品の品質です。エルメスの製品は、縫製の丁寧さや丈夫であることはもちろん、馬にも配慮したつくりが施されていました。特に馬の体に直接当たるハーネスは、馬が嫌がったり暴れたりすることがしばしばあります。

しかしエルメスのハーネスは、全体的に丸みを帯びたつくりにすることによって、馬の肌への刺激が少なく、馬が暴れることがほとんどなかったと言われています。品質の高いエルメスの製品は、すぐにブルジョアの間で話題となり、顧客もどんどん増えていきました。

ついにはナポレオン3世やロシア皇帝までもがエルメスの製品を愛用するようになります。この時点でエルメスは馬具工房としての地位を確立していましたが、ティエリーには他に目指している目標がありました。

1-3.馬の鞍の開発とパリ万博

ティエリーは馬の鞍の開発を目指していました。
鞍とは、馬の背中につける道具で、人や荷物を乗せるための役割をします。

鞍は馬具の中でも製造の難易度が高く、馬具屋よりも鞍屋の方が社会的地位が高いという特徴があったのです。ティエリーは息子のシャルルが成長し、馬具屋エルメスの営業を息子に任せられるようになったため、自身が50歳前後の頃になって、ようやく鞍の開発に取り組めるようになりました。

ティエリーは、アトリエにこもって10年以上という長い年月にわたって、鞍の試作に没頭。完璧主義で製品に対して細かなこだわりを持つティエリーのつくる鞍は、試作の時点でかなりの完成度でしたが、本人にとってはなかなか納得のいかないものだったようです。

鞍は頻繁に買い替えるものではなく、ひとつを長く使用するものであるため、妥協を許さず、より慎重に製造に取り組んでいました。そしてティエリーは、1867年のパリ万博に自分の鞍を出品して、受賞ができたら製品として売り始めることを決意しました。その結果、ティエリーの鞍は、銀賞を受賞。

しかし、まだ鞍の製造技術を、息子シャルルや他の職人に継承していなかったため、ティエリーは鞍の販売を許しませんでした。何よりも、ティエリーは万博で金賞を取ることを目指していたのです。

1867年のパリ万博の後、ティエリーを始め、息子ティエリーと他の職人たちは必死に鞍製作の研究をし、技術を高めていきました。そして再度、1878年にパリ万博が開催されることが決定。次のパリ万博に向けて、チーム「エルメス」は鞍の試作に一層励んでいました。

しかし、パリ万博が開催される3ヶ月前の1878年1月、創業者ティエリー・エルメスが77歳でこの世を去ってしまうのです。こうして創業者ティエリー・エルメスの時代が終わり、息子のシャルル・エルメスが事業を受け継ぐことになります。

【1878年〜】2代目シャルル・エミール・エルメスの時代


出典:HERMES

第2章では、ティエリー・エルメスの息子であるシャルル・エミール・エルメスの時代について見ていきましょう。

2-1.2度目のパリ万博への出品 念願の金賞

創業者ティエリー・エルメスは、息子シャルルをはじめ、エルメスの他の職人たちに徹底的に技術を継承していました。2代目に就任したシャルル・エルメスは、父でありエルメスの創業者ティエリー・エルメスの製品へかける熱い想いを託されたのです。

シャルルの初仕事は、鞍をパリ万博へ出品し、金賞を受賞すること。

そして見事、パリ万博で念願の金賞を受賞。ティエリーの鞍が世界一として認められた瞬間でした。それをきっかけに、エルメスの名はフランス中に知られるようになります。

2-2.アトリエを移転 鞍屋としてリニューアルオープン

シャルルはパリ万博の翌年、1879年にフォーブル・サントレーノ街24番地に店を移転し、鞍屋としてリニューアルオープンしました。1階を店舗とし、2階にはアトリエを併設。今までの製造と卸業に加え、顧客への直接販売も始めるようになります。

また、馬具のカスタム販売を始めたのもこの頃からです。

店舗には、鞍や馬具の他にも、女性用の手袋やハット、ピンなど、馬車に乗る人たちのニーズに応える商材を揃えていきました。

この店舗は、現在もエルメスのパリ本店としてこの場所に構えています。

2-3.エルメスの初のバッグ「オータクロア」

1892年、馬の鞍を入れるためのカバンとして、エルメス初のカバンとなる「オータクロア(haut-à-courroies)」を発表。オータクロアは、フランス語で「気高いベルト」という意味で、後のバーキンの原型となるモデルです。

このカバンを考案したのは、2代目シャルル・エルメスの息子で次男のエミール。後のエルメス3代目となる人物です。エミールは、職人気質の長男アドルフとは反対に、15歳頃から店頭に立ち、商売を間近で見てきたため、商売の才能に溢れていました。

この頃、人々の移動手段が馬車から車へ移り変わろうとしていることに、エミールは危機感を感じていました。これからの時代、馬車関係以外の商品で売り上げを伸ばしていかないといけないと考え、生まれたのが、このオータクロアです。

当時、オータクロアのように縫い目が見えるデザインは珍しく、注目を浴び、特に女性たちの間で旅行バッグとして愛用され始め、評判も高いものでした。数は少ないですが、オータクロアは現在も製造、販売されています。

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【1922年〜】3代目エミール・モーリス・エルメスの時代


出典:HERMES

第3章は、商売の天才で現在のエルメスの基盤をつくったとも言える、3代目エミール・モーリス・エルメスの時代に入ります。

3-1.馬車から車の時代へ

1900年代前半は、父である2代目シャルルの意向もあり、長男アドルフは製作、次男エミールは商売に分業し、兄弟での共同経営が始まります。そしてその頃、フランスでも本格的に自動車が普及し始め、馬車を見かけることが少なくなってきました。

このままでは、馬具の売り上げが下がることは誰の目にも明らかでした。

そこでエミールは、馬具を扱う製造販売からファッションブランドに方向転換することを提案します。しかし、馬具職人としての誇りが高い兄アドルフは、この試みに反対し、兄弟の間に亀裂が生じてしまうことに。

結局、兄アドルフは弟のエミールの意見を受け入れられず、エルメスから退いてしまい、兄弟による共同経営は終了します。

そして1922年、エミール・エルメスが3代目としてエルメスの社長に就任しました。

3-2.バッグに世界で初めてファスナーを使用

エミールは、社長に就任する前、軍に入隊していた時期があり、その時に軍用車の中で見たファスナー付きの荷物入れに目がいきました。エミールは、このファスナーがカバンや革小物にも使用ができると考えていました。

そして社長に就任後、早速ファスナーの専売特許を取得し、1923年に世界で初めてファスナー付きの革製カバン、「ブガッティ」を発表。現在の「ボリード」の原型となっています。その後もエルメスのさまざまなバッグにファスナーが取り付けられました。

鞍職人の「クウジュ・セリエ」と呼ばれる手縫い法でつくったエルメスの革製品は、丈夫で利便性があり、洗練された美しいデザインで、すぐに人気となりました。ファッションブランドとしての新たなエルメスは、順調な滑り出しで始まったのです。

3-3.幅広い事業展開と数々の功績を残したエミール・エルメス

その後1925年には、エルメス初のメンズウェアとなるゴルフブルゾンの販売が開始。革を贅沢に使用したゴルフ用ブルゾンは、イギリスのウィンザー公が着たことで大きな話題となりました。当時、イギリス皇室のウィンザー公は、世界のファッションリーダー的存在でもあり、彼が身につけるものは皆が憧れ真似していました。

また、ココ・シャネルがエルメスのベルトや小物などを着用していたことで、さらに注目されるようになったのです。1927年にジュエリー、1928年に時計とサンダルを発表。そして1937年に、現在ではエルメスの定番アイテムとなったシルクスカーフ「カレ」を発表します。「カレ」は、フランス語で「正方形」の意味ですが、エルメスにおいては、カレ=スカーフの意味となります。

当時のボードゲームを題材とした「オムニバスと白い貴婦人のゲーム」がエルメスのカレ第1号です。しなやかで光沢のあるシルク素材、色鮮やかな色彩、そして独創的なデザインは多くの人々を魅了しました。

1947年には、義理の兄弟のジャン・ゲランが香水部門を設立。さらに1949年になると、紳士用のバッグやシルクネクタイの販売を始め、男性の顧客も増やしていきました。このようにエミールはエルメスで数々の功績を残し、1951年に亡くなり、次世代へと後を引き継がれることとなったのです。

【1951年~】4代目ロベール・デュマの時代


出典:HERMES

4代目は、エミール・エルメスの次女と結婚したロベール・デュマが就任しました。

ロベールは、結婚した1929年から、すでにエルメスの経営に携わっていて、1935年ころからエミールが行っていた実務を引き継ぐようになっていました。

4-1.スカーフのプリント技術の革新

ロベール・デュマは絵の才能があり、スカーフの柄のデザインも担当していました。4代目に就任してからも、ロベールはスカーフ製作に力を注ぎました。今まで木版印刷という方法でスカーフに柄をプリントしていたものを、シルクスクリーン印刷に変更。シルクスクリーン印刷は、版画のように1色ずつデザインと色を重ねていく方法で、柄をより細かく美しくプリントします。

特にエルメスのデザインは、明るく色彩豊かな絵柄が多く、デザインによっては30色以上の色を用いるため、染色作業だけでも長い時間が必要となります。しかしこの染色方法によって、シルク素材の上品で自然な光沢を最大限に活かすことができるのです。

また、エルメスのスカーフには全ての絵柄にタイトルと物語がつけられています。絵画のような芸術性の高さで、ファンを魅了し、すぐにエルメスの代表アイテムとなったのです。

4-2.ブランドカラーの誕生

エルメスのブランドカラーと言えば、鮮やかなオレンジカラーを誰もが思い浮かべるでしょう。このオレンジ色が使われ始めたのは、1940年頃からと言われています。それまでエルメスのイメージカラーは、薄いベージュ色でした。

しかし、第二次世界大戦の中、物資が不足し、エルメスが使っていたベージュの包装紙やボックスが入手困難となってしまいます。そこで、残っていたオレンジ色の紙を使うしかなく、苦肉の策として採用したことがきっかけだったのです。

従来のベージュ色の代わりとして使われたオレンジのカラーは、思いがけず好評となり、戦後も引き続き、鮮やかなオレンジ色が採用されるようになりました。

そして1960年には、正式にオレンジがエルメスのブランドカラーとなったのです。

4-3.2つの代表作 ケリーバッグの誕生と香水部門の独立

1935年代にロベール・デュマがデザインしたバッグ、サック・ア・クロアが、20年の時を超えて再注目されることとなります。モナコ王妃グレース・ケリーが妊娠中に、マスコミからカメラを向けられた際に、お腹を隠していたのが、エルメスのサック・ア・クロアでした。その時に撮られた写真が世界中に広まり、バッグは瞬く間に有名となり、世界中が憧れるようになったのです。

1956年に、本人に許可を取って名前を「サック・ア・クロア」から「ケリー」と変更しました。これが、ケリーバッグの誕生秘話です。そして1961年には「カレーシュ」という名の香水を発表。名前は女性向けの馬車からつけられたものです。

この香水の発表のあと、若者をターゲットとした香水部門を独立させます。エルメスのイメージのひとつである香水は、この頃から本格的に参入していくこととなります。

4-4.ブランド界はライセンスビジネスが流行

1970年代、世の中では「ライセンス・ビジネス」が流行していました。ライセンス・ビジネスとは、ブランドを持つ企業側がブランド名やロゴを貸して商品を展開してもらうことで、ブランドの知名度を広げる可能性があるというものです。ライセンスを借りた企業側は、ブランド名を活かして商品の販売の向上につながるというメリットがあります。

しかし、4代目のロベール・デュマは、ライセンス・ビジネスをすることで自分たちの商品クオリティやブランド価値が下がることを懸念し、固く拒否していました。実際にライセンス・ビジネスによってつくられた商品は、街のスーパーマーケットまでにも並ぶようになり、安物のイメージがつくようになっていました。

ライセンス契約をしていたブランドは、イメージ低下によって業績も低下する事態に。そのような結果、1990年にはライセンス・ビジネスは衰退していきました。エルメスの重要視することは、徹底した品質管理。それには自分たち自身で商品を製作することが重要となります。

ロベール・デュマはその信念を貫き、エルメスというブランド価値をより一層高めることとなったのです。

【1978年~】5代目ジャン・ルイ・デュマの時代

Jean-Louis Dumas
出典:HERMES

1978年にロベール・デュマが亡くなり、5代目には、ロベール・デュマの息子、ジャン・ルイ・デュマが就任します。

5-1.パリ本店の面積と商品展開の拡大

この頃にはエルメスの商品アイテムはかなり増えていて、パリ本店の店舗では手狭になっていました。そこで周りの土地を購入し、店舗を広くします。また、製品の品質を高めるために、シューズメーカーのジョン・ロブ、食器ブランドのピュイフォルカなど、それぞれの高い技術を持つ会社を吸収合併しました。

店舗面積の拡大と吸収合併により、パリ本店にはバッグやウェア以外にも、ジュエリー、スカーフ、シューズ、食器など多くの商品が置かれるようになりました。また、ファッションウェア部門に外部のデザイナーを招へいするようになります。レディースは1981年にデザイナーエリック・ベルジェールが担当。それ以降もさまざまな有名デザイナーがエルメスの作品に携わっています。

一方、メンズウェア部門では1989年から現在までヴェロニク・ニシャニアンが担当しています。ヴェロニクは30年以上にわたってエルメスのメンズ部門で活躍する女性デザイナーです。エルメスらしい優雅でスタイリッシュな服を今も変わらずつくり続けています。

5‐2.名作バッグ バーキンの誕生

エルメスの名作のバッグ「バーキン」は偶然の出来事から生まれました。

ジャン・ルイ・デュマは、飛行機でたまたまイギリスの歌手で女優のジェーン・バーキンと隣の席になり意気投合。すると、彼女が持っていたカゴバッグを落としてしまい、中身が全て出てしまいます。

それを見て「ポケット付きのものにしたらどうですか?」とジャンが言うと、「エルメスがポケット付きのものをつくてくれたら変えます。」とジェーン・バーキンが言ったそうです。ジャンは「私があなたのためのバッグをつくりましょう」と返事をし、その場でスケッチして彼女に見せました。

そして「オータクロア」をベースとした、底が平らで広く、安定感のあるバッグを完成させました。この出会いがきっかけで、エルメスの代表アイテムで世界中が憧れるバッグ「バーキン」の誕生となったのです。

5-3.エルメスの世界進出が始まる

エルメスは世界展開をはかり、2000年にニューヨーク、2001年に東京、2006年にソウルと世界中の都市に主要となる店舗を建設。それぞれが象徴的な建物で存在感を高めています。

東京銀座のエルメスのランタンの灯りような一面ガラスブロックの設計は、建築家レンゾ・ピアノが手がけ、日本の竹中工務店が協力し、建築されました。ガラスブロックは、エルメスのスカーフ「カレ」の4分の1のサイズになっていて、特注でつくられたものです。

また、2002年にはアメリカで、2005年にはフランスでオンラインブティックを立ち上げました。

5-4.ピエール・アレクシィ・デュマが・アーティスティックディレクターに就任

ジャン・ルイ・デュマの息子ピエール・アレクシィ・デュマは経営には携わらず、2005年にアーティスティックディレクターに就任します。

2010年には、今までのジュエリーに加えてハイジュエリーのコレクションを発表。翌年の2011年は、エルメス初となる家具用ファブリックと壁紙を発表します。2015年にはAppleとのコラボレーションで、Apple Watch Hermès が誕生。豊かな創造力と革新的アイディアで、時代のニーズに応えるエルメスの新たな商品を数々生みだしています。

【2006年〜】6代目への橋渡し役パトリック・トマの時代


出典:HERMES

5代目のジャン・ルイ・デュマは、パトリック・トマという人物を経営の責任者として任命します。

6-1.一族以外で初となるCEOの就任

パトリック・トマは、1989年にマネージングディレクターとして入社し、2003年からエルメスグループの共同CEOを務めていた人物です。

パトリック・トマの起用には、5代目ジャンの甥であるアクセル・デュマを後のCEOに就任させるための橋渡し期間を任せる狙いがあったのです。こうして、6代目アクセル・デュマへの世代交代が完了するまでの期間になりますが、一族以外で初となるCEOの就任となりました。

短い任期ではありましたが、パトリック・トマは就任中、今後のエルメスの経営方針や世界観の基盤を固め、エルメス全体に高い影響力をもたらしました。

6-2.LVMHの買収対策に、持ち株会社「H51」を設立

LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)は、ルイ・ヴィトンをはじめとし、フェンディ、ディオール、ジパンシィなどの大手ブランドを数多く傘下に置く世界最大級の複合企業体です。

2010年に、LVMHがエルメスの株を17%所有していることを発表したことで、エルメスを買収するのではという噂がされるようになりました。エルメスはLVMHによる買収を懸念し、2011年に持ち株会社「H51」を設立します。「H51」がエルメス株を50.2%保有し、買収を断固拒否しました。

「今後20年間株式を売却しない」という契約が結ばれ、現在も独立ブランドを貫いています。

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【2013年~】6代目ピエール・アクセル・デュマの時代


出典:HERMES

2013年6月に、6代目となるピエール・アクセル・デュマが予定通りCEOに就任します。

7-1.エルメス初のビューティー部門の創設

アクセル・デュマは就任以降、上海の店舗をはじめ、世界中に数多くの店舗を開店させ、さらなるグループの成長を押し上げます。

そして2020年にビューティー部門を創設し、最初のコレクションとなる「ルージュエルメス」を発表。5年前からデザインと研究開発がスタートしていて、慎重に進められてきた企画でした。

その後、アイシャドウ、マスカラ、フェイスパウダーなどのメイク用品に加え、ハンドクリームやネイルオイルなど幅広く商品を展開しています。洗練されたデザイン、クオリティ、美しさを兼ね備えた新たなエルメスの製品となっています。

7-2.エルメス サヴォワール・フェールの学校を開設

2021年に、ギュイエンヌ地方に19番目となる皮革製品のアトリエを開設。「エルメス サヴォワールフェールの学校(CFA)」を立ち上げました。

この機関では、国家資格となる皮革製品分野の職業適性証(CAP)の取得を目指し、研修を行います。エルメスの伝統的な職人技を継承し、高い技術力の育成を図ることが目的です。すでにこの研修機関から、新たな世代の職人たちが輩出されています。

クラフトマンシップを重んじるエルメスにとって、今後の軸となる場になるでしょう。

エルメス創業から受け継がれる類ないクラフトマンシップ

いかがだったでしょうか?
今回は、エルメスの180年以上にわたる長い歴史を見てきました。

1837年に始まった馬具工房から現在のエルメスになるまで、大きな変貌を遂げてきましたが、決して変わらないことがひとつあります。それは、類ないクラフトマンシップです。エルメスは常に職人の手仕事を尊重し大切にしています。

エルメスのクラフトマンシップは、今回紹介した歴史の中にも随所に表れていました。この信念があってこそ、最高級のものを生み出し、世界中から支持され続けるブランドとして確立しているのでしょう。

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