2023年6月25日
グッチが経験した壮絶な歴史とは。一族が経験した災いを徹底解説。
バッグ
ブランド
世界的に絶大な人気を誇る、有名ハイブランドの『GUCCI/グッチ』
日本の百貨店などでも多く取り扱われており、今や知らない人はいないのではないでしょうか?ドラえもん、ジョジョの奇妙な冒険などの有名アニメや、アディダス、バレンシアガなど他ブランドとのコラボにも積極的で、とてもポピュラーなブランドです。
ここまで実績のあるブランドだと、順風満帆な歴史だろうというイメージを持たれることが多いのですが、そこには『ハウス オブ グッチ』というサスペンス映画になってしまうほど、狂気的で壮絶な過去が存在しているのです。
さて、この記事では、創業から現在に至るまでの歴史や現行ラインついて深く語って行きたいと思います。グッチがどこの国で生まれたかや現在のブランドイメージに関わる内容まで詳しく書いていますので、ぜひ最後までご覧ください。
目次
- 1.グッチの歴史に関わる一族6人と家系図イメージ
- 2.一代の社長で巨額の富を得たグッチ一族の歴史
- 2-1.高級皮革製品店をグッチオ・グッチが創業。数年で成功を収める。
- 2-2.ブランドの元祖。ダブルGとディアマンテが誕生。
- 2-3.戦争の影響で苦難。キャンバスとバンブーがブランドを救う。
- 2-4.グッチオ・グッチの死去と黄金期到来
- 2-5.日本を含む世界各国に出店。香水事業もスタートして軌道に乗る。
- 2-6.グッチ一族の異端児パオロによるセカンドライン誕生。一族は狂いだす。
- 2-7.アルドとロドルフォ死去。3代目グッチはマウリツィオ。
- 2-8.パオロを利用して社長夫人となったパトリツィアのたくらみ。
- 2-9.グッチ一族のGUCCIブランドからの撤退
- 2-10.マウリツィオ・グッチ殺害事件が発生。妻が求めた楽園。
- 2-11.GUCCIの救世主、天才デザイナー「トム・フォード」
- 2-12.PPR(現ケリング・グループ)社による株式取得
- 3.過去のグッチを彷彿とさせる現行ライン4選!
- 4. オールドグッチでおすすめのアイテム5選
- 5.さいごに
1.グッチの歴史に関わる一族6人と家系図イメージ
世界の多くの人々を魅了しているハイブランド『GUCCI/グッチ』は1990年代まで一族で経営を行っていました。
一族経営の歴史を語る上で欠かせない人物は以下の6人です。
・グッチオ・グッチ
・アルド・グッチ
・ロドルフォ・グッチ
・パオロ・グッチ
・マウリツィオ・グッチ
・パトリツィア・レッジャーニ(パトリツィア・グッチ)
まずこの章では、上記6人について簡単に説明させていただきます。
※ハウスオブグッチでのキャストもあわせて紹介します。
<家系図イメージ>
1-1.【創業者】グッチオ・グッチ
・GUCCIの創業者。初代社長。
・1881年にイタリア・フィレンツェで生まれた彼は17歳という若さで単身イギリスへ渡る。
・1921年に後にGUCCIとなる高級皮革製品会社を設立。
・1953年に亡くなるまでの32年間、初代社長として勤めた。
1-2.【デザインの天才】アルド・グッチ
(ハウスオブグッチでのキャスト:アル・パチーノ)
・1905年にグッチオ氏の息子(次男)として生まれる。
・1925年からGUCCI事業に参画。定番アイコンを作り出すなどの逸脱したデザイン力を発揮。
・1940年からはGUCCIの株式を少しだけ譲り受け、海外進出をするなどブランドの国際化に貢献。
・1953年にグッチオ・グッチが亡くなってから1986年まで二代目社長として勤めた。
1-3.【マーケティングの天才】ロドルフォ・グッチ
(ハウスオブグッチでのキャスト:ジェレミー・アイアンズ)
・1912年にグッチオ氏の息子(四男)として生まれる。
・映画俳優を経験した後、1950年からGUCCI事業に参画。
・俳優時代の繋がりを活かしてセレブ女優などの顧客を獲得。
・ブランドの立ち位置を高めることに貢献。
1-4.【一族のトラブルメーカー】パオロ・グッチ
(ハウスオブグッチでのキャスト:ジャレッド・レト)
・1931年に二代目社長アルド・グッチの息子として生まれる。
・父のアルド氏と同じく独特なデザインのセンスの持ち主。
・1968年にはグッチ初のプレタポルテコレクションのデザインも担当。
・圧倒的な実力はあるものの、一族のトラブルメーカーだったことからGUCCIから追放。
1-5.【一族最後のGUCCI社長】マウリツィオ・グッチ
(ハウスオブグッチでのキャスト:アダム・ドライバー)
・1948年にロドルフォ氏の息子として生まれる。
・1970年代からGUCCI事業に参画。
・パオロ氏と共謀して過半数以上のGUCCIの株を集めて当時の社長を解任させる。
・三代目社長となるが、彼の失策がキッカケで1993年にグッチの株を全て売却。
・グッチ一族はGUCCI事業から離れることに。
1-6.【マウリツィオの妻】パトリツィア・レッジャーニ
(ハウスオブグッチでのキャスト:レディー・ガガ)
・マウリツィオ・グッチと結婚し、パトリツィア・グッチになる。
・ロドルフォ氏の反対を押し切って1972年にマウリツィオ氏と結婚。
・夫のマウリツィオ氏をグッチ一族の中で名を上げることに成功。
・1991年に離婚した後、抑えられない嫉妬心や苛立ちから暗殺計画を立てる。
・グッチの狂気的な歴史の元凶となる人物。
2.一代の社長で巨額の富を得たグッチ一族の歴史
現在でも世界中で人気のハイブランドであるグッチ。
日常使いのできるデザインからシックなものまで数々のアイテムを打ち出しています。幅広い年齢層から人気を集めているので、一度は手にしたことがある人も多いのではないでしょうか?
グッチは今でこそ『成功しているブランド』のイメージがありますが、グッチがこの立ち位置を確立するまでには順風満帆ではない壮絶な過去を乗り越えていたのです。
そんなグッチに降りかかった狂気的な歴史とは何なのか。この章では初代社長の一代だけで巨額の富を得たグッチ一族の歴史を、どこよりも深く解説していきたいと思います。ブランドの誕生から現在に至るまで紹介していきますので、ぜひ最後までご覧ください。
2-1.高級皮革製品店をグッチオ・グッチが創業。数年で成功を収める。
グッチオ・グッチは1881年にイタリア北部の革製品メーカーの息子として生まれました。
父親は自営業を営んでおりましたが、後を継ぐつもりは全くなかったことから10代でロンドン・パリに渡り、ウェイターや食器洗い、コンシェルジュとして経験を積んだ後、有名高級ホテルの『サヴォイホテル』でホテルマンとして働き始めました。
有名人やセレブ御用達のホテルだったので、バッグや財布などの身に着けているものやファッションアイテムはもちろん高級品。若き日のグッチオ・グッチは高級でエレガントなアイテムの虜になり、これらのアイテムに対しての理解を深めて自分の知識にしていきます。
その後、故郷のフィレンツェに戻ることにしたグッチオ・グッチはいままで培ってきた知識・経験を活かし、海外から輸入した馬具やレザーのバッグ、靴などの販売・修理を主軸とした高級皮革製品店を1921年に自身の名前を冠してオープン。グッチが始まった国はイタリアだったのです。
現在も絶大な人気を誇るブランド「GUCCI」の第1歩を踏み出します。
バッグやシューズ、ベルトなどのオリジナル商品の販売も始めていくと、品質の良さがたちまち話題となり人気に。
世界各地からグッチオ氏の商品を求めて多くの客が訪れたことによって、1923年には2店舗目をオープンするなどブランドは誕生からたった数年間で成功を収めます。
2-2.ブランドの元祖。ダブルGとディアマンテが誕生。
1933年には、品質保証の証として、グッチオ・グッチのイニシャルであるアルファベットのgが付くブランドロゴの『ダブルG』が登場。GGマークとも呼ばれています。
デザイナーの名前をロゴに起用したブランドはGUCCIが初めてで、今では『ブランドの元祖』と言われています。
1935年にはダイヤモンドパターンの『ディアマンテ』が登場。GUCCIの歴史の中ではとても重要なデザインで、グッチのブランドイメージを強めているgロゴの『GGモノグラム』の原型にもなっています。
2-3.戦争の影響で苦難。キャンバスとバンブーがブランドを救う。
今まで好調に事業を拡大していったGUCCIでしたが、1947年に勃発した第二次世界大戦の影響でメイン素材として使用していた牛革の入手が困難になり、苦しい時代を迎えることとなります。
素材不足に悩んだグッチオ氏が代替素材として考案した過去の商品と違うデザインは『コーティング加工を施したキャンバス地』でした。
苦肉の策として考案したつもりの素材でしたが、洗練されたデザインと配色が高級感溢れる仕上がりとなり、多くの人々からの注目を集めてとてつもない人気を呼びました。
また、持ち手に皮革を使用しないバッグも考案したグッチオ氏は日本から竹を輸入。今でもGUCCIを代表するシリーズの1つとなる『バンブーシリーズ』を生み出しました。
第二次世界大戦が終了すると皮革製品の生産を再開し、ピグスキンを使用したアイテムを生み出します。ピグスキンは一般的に豚革が使用されていますが、耐久性の高いアイテムを生産するため、強くて丈夫なイタリアの猪の革を使用しています。
様々な素材を活用し、苦しい時代を乗り越えることが出来たGUCCIは、世界から大注目を浴びることとなり、海外進出などの事業展開に積極的になっていきます。
2-4.グッチオ・グッチの死去と黄金期到来
戦時中に様々なアイテムを発表したことがキッカケとなり人気を集めたGUCCIは、1940年代後半にロンドンとパリに、1950年代にはニューヨークとロサンゼルスに海外の店舗を展開しました。
事業は好調に進んでいましたが、創業者であるグッチオ・グッチが死去。息子であるアルド・グッチとロドルフォ・グッチを中心にGUCCI事業を引き継ぐことになります。
2代目の社長となったアルド・グッチは先代の意思を引き継ぎ、乗馬から着想を得たアイテムを次々と考案していきます。
鞍の腹帯からは「緑・赤・緑」あるいは「青・赤・青」の織物の「シェリーライン」。
馬の轡(くつわ)と鐙(あぶみ)からは「ホースビット金具」と、今でもGUCCIの伝統的なシンボルとなっています。
・ガースとも呼ばれる。
・馬を制御する手綱(たづな)をつけるために用いる。
・馬上でバランスを取るためにも用いられる。
元々映画俳優として活動していたロドルフォ氏は映画業界の人間と繋がりがありました。
映画の小道具でGUCCIのアイテムを使用してもらったことが広告効果となり、女性たちの間で話題を呼ぶことに成功。エリザベステーラー、オードリーヘプバーンなどの著名人にも売り込みを行っていき、セレブ御用達のブランドとなりました。
この他にもGGキャンバスやジャッキーなどの主要ラインも多く登場し、1950〜60年代はGUCCIブランドとしての黄金期だったと言われています。
ハリウッドスターや裕福な層の観光客がイタリアを訪れたことがきっかけで、ビバリーヒルズにも店舗を構えることができ、GUCCIというブランドはついに国際的な地位まで昇っていきました。世界でも有名なライフスタイル誌でGUCCIのアイテムを装うスター俳優も多く、まだまだ評判を高めていきます。
2-5.日本を含む世界各国に出店。香水事業もスタートして軌道に乗る。
1964年、多くのラグジュアリーブランドが日本への進出を考えている中で、GUCCIは東京 銀座・みゆき通りに日本1号店をオープンしました。
当時のアルド・グッチは日本を軽視していましたが、日本の輸入業者が現地の店舗に長蛇の列を作りグッチブランドのアイテムを大量に買い付けていた様子がニュースになりました。
そんな高度経済成長中の状態の日本にビジネスチャンスを感じたことから日本進出をすると決定。2年後には香港進出も実現し、アジア市場の開拓を積極的に進めて行きます。
1972年にGUCCIは過去の商品とは全く違う香水事業へ参入。
「私たちの顧客は女性が多いから、香水を出せばきっと売れる」と軽率に考えてたアルド氏は、ロドルフォ氏の反対を押し切って「グッチ・パフューム」をスタートさせました。
香水事業を始める目的は大きく分けて2つ。
・皮革製品以外の主要事業を持つこと
・息子たちがビジネスを始めるのにちょうどよいものを作ること
と言われています。
しかし、今までバッグや靴などのアイテムに特化していたGUCCIは、香水に関してまだまだ駆け出しのアマチュア。知識も経験も足りないことから、香水事業は散々な結果となりました。思い付きで成功するほど甘くはありませんでした。
アルド氏とロドルフォ氏は、意見の食い違いからぶつかる時も多々ありましたが、GUCCIのトップとしての責任感は忘れることはなく、兄弟で事業を支えていきました。
2-6.グッチ一族の異端児パオロによるセカンドライン誕生。一族は狂いだす。
戦争や新規事業の失敗などの困難も何とか乗り越えてきたグッチ一族。
ここからは壮絶な家族紛争が起きてしまい、一族で経営をしていたGUCCIにとってブランド存続の危機が訪れます。
元凶となったのが、アルド氏の息子でグッチ一族の異端児、『パオロ・グッチ』です。
アルド氏は、自分が保有している50%の株のうち、ジョルジオ、パオロ、ロベルトの3人の息子たちに均等に分け与え、役員会に参加させました。
三人の息子の中でもパオロ氏はデザイン力に長けていて、一時はチーフデザイナーを任されるほどの実力を持っていましたが、その反面かなりの曲者でもあり経営や販売ターゲットに対して個人的な主張が多くなっていきます。
特に問題となったのは、GUCCIの名を冠した『Paolo Gucci(パオログッチ)』をセカンドライン製品として売り出そうと計画していることでした。
セカンドラインは低価格帯のアイテムをメインとして売り出そうとしていたことから、エレガントなセレブ層だけでなく中流階級の一般層も今後はターゲットにしていきたいという思いがあり、今までのGUCCIのコンセプトとは真逆の考えを持っている人でした。
Paolo Gucciの製品はみるみるうちに量産され、販売まであと一歩というところまで進みますが、アルド氏に計画がばれてしまい阻止されます。
過去の商品やブランドイメージを傷つけかねないこの計画は、会社に対しての敵対行為としてみなされ、パオロ氏はグッチブランドから永久追放されてしまいます。
2-7.アルドとロドルフォ死去。3代目グッチはマウリツィオ。
俳優業を引退してから自らのマーケティング力を活かし、スカーフ・香水をはじめとしてGUCCIのビジネス領域を拡大させて大活躍していたロドルフォ氏ですが、1983年にこの世を去ってしまいます。
ロドルフォ氏が保有していた株は、息子であるマウリツィオ氏に相続されました。
GUCCIの社長を目指していたマウリツィオ氏と、一族に対して復讐心が残っていたパオロ氏は、アルド氏を社長の座から引きずり下ろすため共謀。脱税容疑で内部告発し、約1年間の刑務所生活を送らせました。
海外進出、店舗拡大などを積極的に進め、GUCCIへの功績を多く残したアルド氏も、刑期を終えた後の1990年1月に前立腺がんでこの世を去ってしまいます。
そして3代目の社長に就任したのが、マウリツィオ・グッチです。
プレタポルテ事業では既存のアイテムをよりよくデザインし、新規の女性顧客の獲得に成功。更に新たなデザイナー「ルチアーノ・ソプラーニ」を迎え入れたミラノコレクションでは、大成功をおさめました。
数々の大きな功績を残し続けたマウリツィオ氏ですが、GUCCIに悲劇を持ち込みます。
2-8.パオロを利用して社長夫人となったパトリツィアのたくらみ。
前述のパオロ・グッチとマウリツィオ・グッチの共謀を計画した張本人は、マウリツィオの妻であるパトリツィア・レッジャーニ(パトリツィア・グッチ)です。
彼女の目的はただ一つ。『グッチ社長の妻になること』でした。
父親に不満を持っていたパオロ氏に近づいて保有している株をマウリツィオ氏へ渡すよう促し、社長夫人になるという自分の目的を果たしました。
グッチブランドのアイテムをパトリツィアがデザインしてしまうほどに社長夫人への執着がありました。
その後、13年間の結婚生活の中で2人の娘を授かり円満な家庭を持ったと思えましたが、夫と経営方針や意見の食い違いで言い争いが絶えず夫婦関係は破綻していきます。
我慢の限界に達したマウリツィオ氏は娘たちの為にもよくないと考え、家を出て家族と別居する事を選びました。子供たちは、母親のパトリツィアが養育をすることになります。
しかし、その時の彼女にはまだ余裕がありました。
なぜなら、まだ「グッチ社長の妻」という立場は健在だったから。
2-9.グッチ一族のGUCCIブランドからの撤退
パトリツィア・グッチは、夫に新しいパートナーであるパオラ・フランキという女性の存在がある事を知ります。夫であるマウリツィオ・グッチが離婚をしたいと言い出してから何年にもわたり喧嘩と非難を続けました。
家族を捨てて出て行って更には不倫をしていた夫に対して「あなたはまだ本当の地獄を見ていない」などと脅しの電話をかけるほどに、グッチのブランド力とグッチ一族から離れるのが許せなかったのです。
調停では、離婚による慰謝料として年間100万ユーロ(当時のレートで約1億3000万円)相当をパトリツィアが受け取る事で合意。1991年に正式に離婚が成立しました。その後しばらくしてから、マウリツィオは再婚することになります。
1993年にマウリツィオが保有していたGUCCIの株50%をバーレーンの会社に売却し、グッチ一族はGUCCIブランドから完全に撤退することとなりました。家族もGUCCIも手放し「グッチ社長の妻」という自分の立場すらも奪っていったマウリツィオに対して、復讐する方法を考えているうちに、彼に対して強い殺意を抱くようになりました。
2-10.マウリツィオ・グッチ殺害事件が発生。妻が求めた楽園。
1995年のある日、マウリツィオ氏はいつも通りの仕事の日にロビーを散歩しているときに、何者かに銃で暗殺されてしまいます。現場からは40代の男が逃走したとの情報がありますが、それだけでは犯人を特定することができず、事件は迷宮入りとなってしまいました。
パトリツィアとマウリツィオが別居中だったこともあり、内部で何か問題があると考えていた警察はグッチ一族の中に『マウリツィオグッチ殺害事件』に関与している人物がいるのではないかと疑っていました。
1997年1月31日、迷宮入りとされていたマウリツィオグッチ殺害事件がついに動きます。
犯人が住んでいるミラノの高級マンションに捜査員が突入。その中から出てきたのは、元グッチ社長夫人のパトリツィア。
殺し屋を雇い、夫を殺害する計画を立てた張本人の疑いがあるとして、彼女は逮捕されました。
瞳はうつろで足取りは重そうでしたが、手にはGUCCIのバッグを持っていました。
元夫の暗殺事件に関して「自分は何も関与していない」と主張していましたが、警察はすべての点を繋げパトリツィア氏が暗殺計画を立てた張本人だということを認めさせました。
しかし彼女は「私が殺人を犯したわけではない、ただ元夫が憎いという思いを持っていただけだ。」と、自分の罪を認めずにいました。
捜査を続けていく中で、警察は彼女の日記を見つけました。
マウリツィオ氏が殺害された日の日記には「楽園」を意味する「パラダイス」という言葉が記されていました。
自分の元夫が殺された日に記す言葉とは思えない狂気的な内容ではありましたが、これだけでは暗殺の計画を立てたという証拠にするには不十分。事件から1年が経っても警察は決定的な証拠を見つけるのに苦労しました。
その後、殺人の報酬額でマフィアとトラブルが起きていたということが明らかになり、パトリツィア氏に懲役29年の実刑判決が下されます。
富と名声を手に入れるためならば、手段を選ばない「悪女 パトリツィア・レッジャーニ」。
GUCCIブランドはこれまでの立ち位置を奪われ、完全に崩れたと思われましたが、一人の救世主が現れます。
2-11.GUCCIの救世主、天才デザイナー「トム・フォード」
一族での経営が終わった翌年、当時33歳のトム・フォードがグッチブランドのクリエイティブ・ディレクターとして就任。グッチ一族内の対立や財産問題などによりイメージダウンしていましたが、このデザイナーが救世主となり奇跡の復活を遂げることになります。
シルク素材を使ったメタリック金具装飾のカットアウトジャージードレスが独特なアイコンだとして大注目を浴び、これまでのGUCCIには無かった大胆さとセクシーなデザインを吹き込み、みるみる内に世界で認知されていきました。
過去の商品の伝統を残しつつも、現代に合わせたデザインを意識し続けたトムフォード氏は、新しいグッチブランドとしてのスタイルを確立させていきます。
アイテムのデザインだけでなく、店舗デザインや広告、ファッションショーの演出にもこだわりを持って取り組み、更には世界的セレブのマドンナやケイト・ウィンスレットなどにGUCCIのアイテムを愛用してもらうなどマーケティングの面でも力を発揮していきます。
破産状態を復活させた救世主・トムフォード氏は、就任から2004年までの10年間、GUCCIのデザイナーを務め上げました。過去の商品で培ってきたブランド力は加速していきます。
2-12.PPR(現ケリング・グループ)社による株式取得
1999年、フランスの流通・ラグジュアリーグッズにおける大手企業、PPR社(現ケリング・グループ)と戦略的提携を組んだことにより、グッチはグループ傘下のブランドとなりました。LVMHやリシュモンと並ぶ『世界三大ラグジュアリーコングロマリット』のひとつです。『世界三大グループ企業』とも呼ばれています。
イヴ・サンローラン、アレキサンダー・マックイーン、バレンシアガ、ボッテガ ヴェネタなど、グッチだけでなく数々の有名ラグジュアリーブランドをグループに獲得します。
こうして数々の苦難を乗り越えてきたGUCCIは、ブランドイメージをそのままにしながらも現在でも世界的に有名なラグジュアリーブランドとして幅広い年代から愛されるようになりました。
3.過去のグッチを彷彿とさせる現行ライン4選!
一族経営の歴史の中で生まれたグッチの代表的アイテムは、現在でも多くの人々からオールドグッチと呼ばれるほどに人気を集めています。
オールドグッチのような見た目を持ちながらも、現代的に再解釈が加えられた現行ラインも大人気。さて、この章では、過去のグッチを彷彿とさせる現行の人気ラインをいくつか紹介していきたいと思います!
3-1.【GGキャンバス】これぞGUCCI!定番のキャンバス地
出典:GUCCI
GUCCIの代表的なラインといえば「GGキャンバス」です。gロゴのブランドやgが付くブランドロゴと言われたら、GGキャンバスを思い浮かべる方も多いと思います。
互い違いに向かい合ったGの文字がモノグラムで表現されたデザインは、発表から50年以上たった今でもブランドイメージに一番合っているラインとして世界中から愛されています。
GGキャンバスの特徴はレザーではなくキャンバス素材であるということ。
そのため、肌触りがやわらかく、ジャガード織の光沢感が独特の高級感を出しています。
3-2.【オフィディア】伝統とモダンを兼ね備えたライン
出典:GUCCI
2018年のクルーズコレクションで登場したラインです。
GGパターンとウェブストライプというグッチのアイコンを融合させたデザインは、オールドグッチの年代を彷彿とさせます。
ブランドのイメージ的に女性が多いと思いますが、オフィディアは年齢に左右されることなく世代を越えて多くのファンからの人気を集めています。
グッチのアイコンを前面に押し出したデザイン性はもちろん、機能性も兼ね備えていて、財布、ハンドバッグ、ショルダーバッグと様々なアイテムが展開されていてラインナップも豊富です。あらゆるコーディネートで活躍してくれることは間違いありません。
3-3.【GGマーモント】ヴィンテージ感が魅力のGG金具
出典:GUCCI
2016-2017年の春夏コレクションにて発表されたヴィンテージ加工された金具が特徴的なラインです。
GUCCIのクリエイティブディレクターである、アレッサンドロ・ミケーレが手掛け、発売から今もなお大人気です。
印象としては、GGマーモントシリーズは、かつて1970年代にグッチが取り扱っていたベルトバックルからアイデアを得ているのですどこかレトロで真新しさはないともいえます。
GGマーモントの多くのデザインは、Gが2つ重なり合ったゴールド金具のエンブレムがマットで少しくすみがかっており、キルティング調の生地がベースです。ヴィンテージライクな風合いは他には大人っぽいオシャレを演出してくれます。
3-4.【GUCCI DIANA】グッチの過去と未来をつなぐ象徴的ライン!
出典:GUCCI
2021年に発表された、比較的新しいラインです。
古くからある伝統的なアイコンのバンブーシリーズを歴史を引き継ぎながら、現代風に再構築して生まれました。GUCCI DIANAの最大の特徴はバンブーハンドルに取り付けられたレザーベルトです。
竹は反り返りが激しい素材のため、当時のバンブーシリーズのバッグのハンドルには形状を安定させるためのベルトが付属していました。
カラーバリエーションも豊富で、ヴィンテージさを感じながらも近代的なデザインが魅力です。
4. オールドグッチでおすすめのアイテム5選
昨今、過去の商品であるオールドグッチのリバイバル品などが数多く展開されていますが、当時のオリジナルのアイテムも人気を集めています。
オールドグッチの中でも、個人的にオススメのアイテムをいくつか紹介していきたいと思います!
4-1.シェリーラインがかわいい!トートバッグ
出典:wear
こちらのアイテムはオールドグッチの中でも定番のトートバッグとなっています。グッチが展開した歴代バッグの中でも代表的なアイテムです。
シェリーラインを使ったストラップがかわいいですよね!
中古業界でも流通量が多く、価格もそこまで高く設定されている物ではないので、買いやすいアイテムです。
4-2.使い勝手の良さで大人気!ショルダーバッグ
出典:wear
GGスプリームとシェリーラインの組み合わせが特徴的なオールドグッチのショルダーバッグ。
耐久性が高く汚れに強い特徴があります。ストリートファッションにも使える汎用性の高いアイテムです。本アイテムのリバイバル版は「オフィディア」の名称で2018年にラインが発表されました。
4-3.ちょっとした旅行にも最適!ミニボストンバッグ
出典:wear
GGスプリームと縦方向のシェリーラインが鮮やかなミニボストンバッグは、デイリーにもちょっとした旅行にも使えるサイズが人気のオールドグッチアイテムです。
インターロッキングGのゴールドプレートや、持ち手と本体をつなぐレザーのディティールが特徴になります。
4-4.小ぶりな見た目が愛らしい!バケットバッグ
オールドグッチ巾着型バケットバッグは、小ぶりで愛らしいスタイルが人気のバッグです。ショルダーバッグと違い開口部に口金がなく、丸みのある特徴的な形がコーディネートにアクセントを加えます。
このアイテムにはシェリーラインがなく、リバイバル版のオフィディアにはシェリーラインを再解釈したウェブストライプが施されています。
4-5.小物もアイコニックでかわいい!キーケース
ブラウンのカラーのGGスプリームがおしゃれなオールドグッチのキーケース。定番デザインで、オールドグッチのクラシックな印象を感じさせます。お出かけするときも、帰宅する時も気分を上げてくれそうなアイテムですよね!
5.さいごに
いかがだったでしょうか。
現在では有名ラグジュアリーブランドのGUCCI。
一度は黄金期と呼ばれるほど好調な経営をしていましたが、内部の人間によって崩され
低迷。そこから救世主が現れて持ち直して。。。。などまさに「山あり谷あり」という言葉がベストマッチしますよね。
今回記事にさせていただいた内容は「ハウス オブ グッチ」という映画になっています。
映像で見るとわかりやすいかなと思いますので、そちらも是非ご覧になってみてください!